りんご大好き三浪生の日常

国公立大理系志望三浪生の日々を綴ります。

人間讃歌

 生産的なことをしていないと生きていけない人間というものが世の中には存在するが、残念ながら私はその部類ではない。

 そもそも、全ての行動において一言で生産的、非生産的とカテゴライズすることは可能であるが、それはその時点で簡単に分類することが難しく、かつ、個々人に依存する。万事塞翁が馬であり、価値観とは一つではないからだ。

 例えば、非生産的な趣味の代表であろう漫画でも挙げてみよう。ブラック・ジャックという漫画をご存知だろうか。果たして世の中にブラック・ジャックに憧れて医師を志した人間がどれくらいいただろうか。確かにその時では非生産的であったとしてもブラック・ジャックに支えられ医師になった人間がいくらいただろうか。

 その観点で言えば、ひとくちに何事においても非生産的であるとは言い難く、非生産的であると何かに対して物申すものがあれば、即ち、その人こそが非生産的であり物事を短絡的にしか考えられない人であると言わざるを得ないだろう。つまり、我々の人生において非生産的なことなどその瞬間に決めつけることなど出来るはずもなく、この様にして私の紆余曲折(よい言い方をすれば)溢れた人生においても(将来の私の行いに依存してしまうが)そのことが適用されるであろうと考える。こうして私は自分の人生を肯定し正当化し受け入れている。これは、自分の人生とは自分のものであり、己の自我を保つ為にこうする他ないからである。

 しかし、このことにおいても、昨今、他人指向型の人類が多く見られるというが、例にも漏れず私もそうして自分を正当化することで(本来必要のない正当化)己が精神を保っていると言える。

 なぜなら、自分の人生を他人に正当化する必要など本来無いからである。何を好み、何を嫌い、どの様な人生を送ろうと、大抵の場合、誰に影響を与える事もなければ殆どの場合誰かが辿ったような人生を送るからである。言わずもがな私の人生にも当てはまる。紆余曲折し、私の様な進路を辿った諸先輩方など星の数程存在し、私もそのうちの1人でしか無いからである。そこで、我々は自己のアイデンティティをどこに感じるかということについて考えなければいけない。多くの人間にとって、自分という人間は代用が効くものであり、所詮人間から見たアリンコ1匹と同じ存在であるからだ。誰かが何者かになりたいと考えた時(私含めた希望溢れた若者に多いだろう)その人は誰かにとって既に何者かであるということを忘れてはいけない。その上、人間の承認欲求というのは若者の夢と同じ程際限がない。したがって、何者かになりたいという承認欲求を満たす為には上限を決めておく必要がある。

 あなたは誰に認められたいのだろう。