氣付き
先日、猫を散歩させていたところ、初老のおじさまに声をかけられました。
「かわいいねこちゃんですね。お名前は何と言うのですか。」
「ゆきえです。」
僕は答えました。
知らないおじさんに話しかけられるというのは非常にこわいことですが、こと、ねこを連れているときに関して言えば、その恐ろしさも半減されます。まず、ねこちゃんが一緒で心強いということ、そして、おじさんはただ誰かと何かと話したくて仕方がない生き物だということがわかるからです。ねこちゃんはそんなおじさんの格好の餌食なのです。不安や恐怖感というのは、その根源の理由がわかるだけで大抵半減します。知らないからこわいのです。留年は知ってしまうと余計こわいものですが。ですから僕は安心しておじさまの質問に答えることが出来ました。マニュアル人間こと僕の得意分野です。
「君はなんのために生きているの?」
おじさまが僕に尋ねます。
僕の中の小人はここで、それまで機能を停止させていた危ない人センサーをぐわんぐわんと働かせて僕に危険を知らせてくれます。けれども、考え事が大好きなひねくれ小人が邪魔をします。僕たちは一体なんのために生きているのだろう。僕は一度そう考えると、答えが出ないことに対する不快感からかこう口に出してしまっていました。
「僕は一体何のために生きているのだろう。」
「大丈夫。今、人生の意味なんかわかってる人はいないんだから。それに、ただ闇雲に生きるというのも悪くないよ。」
おじさんは答えます。
このおじさんは何を言っているのだろう。僕は困惑しました。けれども、少し時間が経って考え直してみれば容易に納得することができました。
おじさんは僕より20年も多く生きています。
その人生にさして意味がなかったとしても、僕の人生も意味がないわけでありますから、このおじさんが言っていることは20年後の僕の言葉でもあるわけです。
「ありがとうございます。」
僕は感謝の言葉を述べてその場を後にしました。
それを聞いたおじさんは、優しい笑みを浮かべると、楽しい人生を。と言い残して同じ様にその場を立ち去りました。
にゃあ。
ぼくの可愛いねこちゃんが声を上げます。
意味はありません。
ねこちゃんの鳴き声に何か意味があっても、僕には理解できないからです。
理解できないものに意味はないのです。
つまり、ぼくが理解できていない全てのものはこの世に存在していないことと同じなのです。
帯分数、スマホ、ねこちゃん。
この世における全てのブラックボックスは僕にとってみれば何の意味もないデブリであるのです。
どれだけ可愛くてどれだけ意味がある様に見えても僕に理解されなければこの世に存在することはできない。
言うなれば、人口の数だけ神様がいるといえるかもしれません。
八百万どころではありません。
何億という神様(創造主)がいます。
当の神様たちはといえば今日もくだらないことで争っています。
各々が各々、神様であるという認識が足りないのです。
「君は何のために生きているの?」
僕はねこちゃんに尋ねます。
にゃあ。
三毛のゆきえは無意味に川辺に石を並べる子供の様な無邪気さでもって僕の存在を認めてくれました。